(1)天皇・貴族さらには足利将軍も、実力ゼロに


 近衛前久(さきひさ、1536~1612)は近衛家第17代当主である。近衛家は、天皇家を支える貴族のなかの、トップ貴族の家である。


 藤原鎌足を始祖とする藤原家は、奈良時代に4家に分かれ、そのなかの「藤原北家」が大いに栄えた。藤原北家嫡流は鎌倉時代になって、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の五摂家となった。五摂家が摂政・関白に就任でき、五摂家から皇后を出すことになった。そして、近衛家が五摂家筆頭と位置づけられた。天皇家に一番近い貴族、それが近衛家である。


 ただし、武家の台頭により、貴族の実力は時代が下るとともに低下していった。貴族のみならず、天皇家においても同様であった。南北朝動乱期からは、天皇家は足利将軍家の丸抱えで維持される実態となった。


 ところが、その足利将軍家も応仁の乱(1467~1477)以後は衰退が著しく名目将軍に過ぎなくなった。


●天皇のこと

 天皇の実力ゼロ、しかも、支えていた将軍も実力ゼロになると、朝廷は端的にいって完璧な財政難となり、天皇家の超重要な儀式すらできない有様となった。

 朝廷のドン底財政が克服したのは、織田信長(1534~1582)が、1568年、足利義昭を奉じて、さらに天皇保護を大義として京を制圧したからである。


●将軍のこと

 ここで、名目的将軍10~15代を、簡単に書いておきます。

 10代将軍・足利義稙(よしたね、1466~1523、在職1回目1490~1493、2回目1508~1522)は、1493年細川政元(1466~1507)によって将軍職を剥奪され(明応の変)、北陸・中国を転々とし、1508年大内義興(よしおき、1477~1529)によって将軍に返り咲いたが、1521年細川高国(たかくに、1484~1531)によって京を追い出され、阿波で亡くなった。細川政元は「半将軍」と呼ばれ、足利義稙は「流れ公方」と呼ばれた。

 11代将軍足利義澄(1481~1511、在職1495~1508)も傀儡、逃亡先で死亡した。

 12代将軍足利義晴(1511~1550、在職1521~1546)も逃亡・入京を繰り返さざるを得ず、最後は三好長慶(ながよし、1522~1564)に京から追い出され、逃亡先で死亡した。

 13代将軍足利義輝(1536~1565、在職1547~1565)は、将軍の実力復活のため猛烈に活動したが、傀儡将軍を望む三好・松永軍の襲撃で敗死。

 14代将軍足利義栄(よしひで、1538~1568、在職1568年2~10月)は、三好三人衆及び阿波国人衆の力で将軍に就いたが、織田信長が足利義昭を奉じて入京したため、わずか8ヵ月で将軍職を剥奪され、直後に病死。義栄は、一度も京の土を踏むことができなかった。

 15代将軍足利義昭(1537~1597、在職1568~1588)は織田信長の力で入京し将軍職に就いた(1568年)。にもかかわらず、将軍という役職を過信して反信長の行動をとった。そのため、1573年、京から追放された(室町幕府終了)。形式的に将軍職は1588年に辞した。


●細川→三好→松永のこと

 ついでに、当時の京の実質権力者の推移に触れておきます。ものすごくゴチャゴチャしているので、極々簡単に述べます。

 応仁の乱以後、細川政元が事実上の京の最大権力者になります。

 細川政元の死後、細川家の内紛が発生します。

 内紛の過程で、細川家の家臣である三好長慶(1522~1564)が京の実質権力者にのし上がります。

 三好長慶の死亡後、家臣である松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後継となります。松永家と三好三人衆は共同で、将軍復権で動き回る13代将軍足利義輝を突然襲撃して殺害します(永禄の変)。

 しかし、松永久秀と三好三衆は、数ヵ月後には対立して戦闘状態になります。

 織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、松永久秀は信長に臣従。三好三人衆は信長に敵対した。

 ところが、松永久秀は、いわゆる「信長包囲網」の一員となり織田信長に敵対するようになる。そして、三好三人衆と手を組む。しかし、1573年、信長に敗退した。


(2)「実力ある武家」は誰か


 朝廷の実力低下、財政窮乏化は、同時に、公家社会の全般的窮乏化・無力化です。

 

 近衛家はトップの格式を有する公家です。


 近衛前久は、1554年、19歳で関白に任じられた。とは言っても、無力化している朝廷での関白である。


 それでは、近衛前久の頃の近衛家の財政状況は、どんなものだったろうか。鎌倉時代の近衛家は全国に約150ヵ所の荘園を持っていた。それが、京の周辺の5ヵ所、300石余程度に減じていた。江戸時代の旗本は、200石以上1万石以下であるから、下級旗本のランクである。


 ただし、近衛前久は、荘園収入以外に、京の数ヵ所での地子銭(地代)、貸金の利子銭、武家等からの「口利き」に対する礼銭・礼物もあった。これは相当な額と想像される。


 公家のトップ・関白になっても、権力の実権からは、ほど遠いので、収入が増加するわけでもない。要するに、貧乏貴族である。


 若き近衛前久は、悩み考え続けた。結論は「実力ある武家」と組むことが近衛家の生きる道、であった。問題は、誰が「実力ある武家」か、である。


 京での最大実力者は三好長慶であった。とは言うものの、三好長慶にはライバルの武家が複数いて、それらと戦闘・和睦を繰り返している。


 13代将軍足利義輝は、将軍の実権を回復させようとジタバタしている。近衛前久の目には、三好長慶も足利義輝も、組むべき「実力ある武家」とは思えなかった。西国の大内氏は、衰退傾向のようだ。九州南部の薩摩には、かつて近衛家の広大な荘園があり、今も若干の縁があるが、どんなものか……、近衛前久の悩みは続いた。このとき、上杉謙信(1530~1578)が、目の前に登場した。


(3)近衛前久と上杉謙信の「血書の誓詞」


 1559年(永禄2年)、上杉謙信が2度目の上洛をしたのであった。第1回目は1552年である。


 上杉謙信は、1550年に越後を統一した。そして、関東の北条氏康(後北条3代目、1515~1571)、北信濃で武田信玄(1521~1573)と、困難なる二正面作戦を展開していた。上杉軍が関東へ進出すれば連戦連勝、その間に武田軍は北信濃へ進出。上杉軍が関東から北信濃へ廻れば北信濃では連戦連勝だが、関東はやすやすと北条の勢力となってしまう。それで上杉軍はまた関東へ進出して連戦連勝……という繰り返しである。しかしながら、とにかく、上杉軍は強かった。

 

 そうしたなか、上杉謙信の2度目の上洛(1559年)の目的は、次の2つであろう。


①上杉謙信が関東および北信濃での覇者であることのお墨付きを将軍足利義輝(13代、在職1547~65、生没1536~65)から頂く。正親町天皇(おおぎまち、106代、在位1557~1586、生没1517~1593)にも事実上、それを認めてもらう。むろん、上杉謙信は、そんなお墨付きが実戦に役立つとは信じていない。でも、上杉謙信は、私利私欲で領土拡大を目指す人格ではなく、大義名分を絶対的に重視する正義の人なのである。


②京では、足利義輝と三好長慶との戦いが、上洛前年(1558年)に「三好長慶が将軍足利義輝よりも有利」という内容で和睦となり、しかも正親町天皇も認めている。各地の大名にすれば、「一武将が将軍よりも上、それを天皇が認めた、なんじゃそりゃ?」「将軍を頂点とする幕府秩序崩壊か。すると、今後、どうなるか?」と疑問・動揺が湧く。その実情・実体を、この目で知りたい、ということがあったに違いない。同じ頃、織田信長も斎藤義龍も上洛したが、「京は、どうなってるの?」という感じであったろう。上杉謙信も同様だろう。


 上杉と将軍及び天皇の間で、奔走したのが、近衛家16代当主の近衛稙家(たねいえ、1502~1566)と17代当主の近衛前久の親子である。公家筆頭の関白であるから、当然の役回りである。このことに限らず、近衛家など上級貴族は天皇や将軍の命を受けて各地の有力者と接触したり、逆に各地の有力者の要望を天皇や将軍に伝達するのであった。各地の有力者は、しかるべき礼銭・礼物を仲介者へ渡したことであろう。


 さて、上杉と将軍との会談のほとんどは秘密であった。三好にすれば、上杉と将軍に軍事同盟を組まれたのでは苦境となる。将軍にすれば上杉と軍事同盟を結びたい。上杉にすれば、将軍と三好の争いに巻き込まれたくない。内密、内密で、結果は現代用語では「内密かつ玉虫色」でまとまった。


 この過程で、上杉謙信と近衛前久は固い信頼が育ち、ついに「近衛前久と上杉謙信の血書の誓詞」となった。6ヵ条から成り、全文が血書である。内容は、近衛前久は上杉謙信の与力になって全身全霊で尽くします、ということです。


 私の想像ですが、上杉謙信は1500人(一説には5000人)の兵士を、京の東北の比叡山の麓・坂本に駐留させた。上杉軍は連戦連勝の兵である。近衛前久の素人目にも、これまで目にしていた三好軍などとはレベルが違う強力軍隊と確信したのだと思う。この軍隊と上杉謙信の正義感ならば、日本から戦乱をなくし京の平和を回復できると確信したのである。


 そして、まったくの想像ですが、近衛前久は戦略というか夢というか、それを信じた。上杉謙信は北条を滅ぼし関東を支配し、関東管領となる。関東管領たる上杉謙信と関白たる自分の2人が先頭に立って、上杉兵と関東兵を引き連れて京へ上れば、それで平安が回復する。


(4)上杉謙信の関東制覇、失敗に終わる


 1560年5月、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を敗死させた。これによって、甲斐・相模・駿河の甲相駿三国同盟が消滅したわけではないが、上杉謙信は、今川義元の敗死に触発されて、関東・相模の北条氏康を滅ぼす決意をした。同年8月越後春日山城を出発し、上杉軍8000人は三国峠を越えて関東に入った。上杉謙信が関東に入ったのは、これが初めてである。上杉軍は北条方の10ヵ所の城を次々に攻略し、厩橋城(現在の群馬県前橋市)を拠点として、年を越えた。


 近衛前久は、すぐさま上杉謙信のもとに参じたかったが、正親町天皇の「即位の礼」のため現職の関白が欠席するのはよくない、と諫められたため、越後春日山城に到着したのは1560年11月だった。それにしても、「即位の礼」を欠席してでも越後へ行くと言い出したのは、並々ならぬ決意であった。すでに、上杉謙信は関東に入っていた。近衛前久は雪のため関東に入れず、結局、関東に入ったのは、1561年初夏であった。近衛前久にとって、冬の越後、関東の地は別世界であった。


 1561年(永禄4年)、上杉謙信は、関東の諸将に北条討伐のための参陣の檄を飛ばした。上杉軍は南下して3月には小田原城を包囲した。関東の諸将の軍と合わせて11万を超えた。北条は、関東一の堅城・小田原城を頼りに籠城策をとった。


 上杉謙信は1ヵ月包囲した後、閏3月、鎌倉鶴岡八幡宮で「関東管領」襲職、「上杉」襲名の式を行った。これまでは、長尾景虎で、このとき上杉政虎と名乗った。上杉謙信と名乗るのは1570年末からだが、本原稿では、面倒なので、一貫して上杉謙信としています。


 鶴岡八幡宮での式を終え、厩橋城(現在の群馬県前橋市)へ凱旋し、ただちに越後へ帰った。上杉謙信としては、北条を殲滅しなくとも、関東の諸将が関東管領の配下に入ったことで、目的達成と思ったようだ。


 一方、近衛前久は厩橋城から越後へ同行せず、古川公方の本拠である下総古河城へ入った。それ以前に反北条勢力に擁立されていた古河公方・足利藤氏、前関東管領・上杉憲政も入城していた。上杉謙信の狙いは、古河城を関東の上杉の拠点にすることであったが、名門の3人を並べたところで、戦国時代は「武力」が第1である。

 

 越後へ帰った上杉謙信は休むことができず、北信濃へ出陣する。武田信玄が進出していたからだ。そして、9月10日、上杉謙信・武田信玄の一騎打ちで有名な第4回川中島合戦となった。映画・漫画での名シーンである。前後5回もあった川中島合戦の最大の激戦であった。結果は、前半が上杉の勝ち、後半は武田の勝ち、総じて引き分けであった。


 それよりも、上杉軍がいなくなった関東では、北条が反撃に出た。上杉謙信がいないので、一旦は上杉に加担した関東の諸将は続々と北条についた。上杉側と北条側の合戦が続出していると、第4回川中島合戦の後、武田信玄は上野(群馬県)へ進出、上杉謙信も関東に入る。かくして、北条・武田連合軍と上杉軍の合戦が続き、結局は、1562年(永禄5年)4月、上杉謙信は近衛前久らを伴って越後へ帰った。上杉謙信の関東支配作戦は失敗に終わった。古来、二正面作戦は難しいとされているが、上杉謙信も二正面作戦の失敗例である。


 近衛前久は、越後春日山城に到着して、すぐに京に帰ってしまう。上杉謙信は帰京を慰留したがダメであった。上杉謙信の部下との手紙のやりとりも、1563年(永禄6年)で終わり、上杉謙信と近衛前久の交流は完全に終了した。


 あの「血書の誓詞」は何だったのだろうか。


 近衛前久の心変わり、とは何か。


 24歳で「血書の誓詞」、27歳で事実上の誓詞反故。若さ・未熟ゆえの「血書の誓詞」だったのだろう。一般論でいえば、若者は、経験値が乏しく、また知識総量が少なく、それゆえ偏向した思考、自信過剰に陥りやすい。そうした一例であろう。


(5)近衛前久の7年間の流浪とは、信長のスパイ


 1562年(永禄5年)、近衛前久は京へ帰った。京の状況は、相変わらずゴチャゴチャ状況である。ゴチャゴチャは省略します。


 1565年(永禄8年)5月、二条御所の第13代将軍足利義輝が、松永久秀と三好三人衆の軍勢に突然襲撃され討死した。


 次期将軍の座をめぐって、足利義栄と足利義昭が対立する。足利義栄は三好三人衆の後押しで、1568年2月に第14代将軍に宣下された。


 しかし、1568年(永禄11年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて入京した。6万人の大兵力の前に、10月、足利義栄は辞職し、足利義昭が第15代将軍に就任した。


 近衛前久は関白である。こうした動きに関心はあったろうが、自分から積極的・表立って動くことはなかった。上杉謙信の件で、「やりすぎた」と反省したのかも知れない。ところが、本人の真意とは無関係に、周辺は、近衛前久は「義栄派」とみなした。そして、義昭もそれを信じた。その結果、1568年11月に、近衛前久は関白剥奪、京から追放になってしまった。以後、7年間の流浪の身となる。


 しかし、私は「単なる流浪ではない」と推理します。


 この流浪の7年間は、「近衛前久は織田信長の隠密として、反織田側の懐にもぐり込み、情報収集した」というものです。


 世間は、近衛前久は「義栄派」=「反義昭」、そして、「義昭・信長は同盟」だから、近衛前久は必然的に「反信長」とみなす。その世論を織田信長は利用したのだ。


 近衛前久は上杉謙信のときと同じように、「実力ある武家」と組むことが近衛家の生きる道と信じている。上杉謙信よりも、はるかに強大なる織田信長と組むことは当然である。そして、複雑なる人脈関係をクリアするため、隠密裏に近衛前久と織田信長は手を組んだのだ。


 京を追放された近衛前久は、最初、摂津の大坂本願寺(石山本願寺)に滞在した。浄土真宗の寺院であるが、イメージは強大なる戦国大名で、反信長である。


 それから、河内の若江城へ移る。若江は三好長慶の養嗣子・三好義継(1549~1573)は、当初は信長派だったが、近衛前久が滞在した頃は、反信長であった。


 若江にいた頃、越前一乗谷の朝倉義景を訪れている。朝倉義景も反信長の一員である。


 1573年(天正元年)、若江から丹波へ移る。その2年後は、明智光秀の丹波攻略が開始された。近衛前久が丹波に移った頃、信長と丹波の関係もギクシャクしていた。


 1575年(天正3年)6月、近衛前久は信長の尽力で、京追放を許されて、京に戻ることができた。


 この7年間を、小説「スパイ近衛前久」にしたら、とても面白いと思うのだが、どうかな~。


 つまり、近衛前久は、反信長の拠点を移り渡って情報収集していたのだ。そうでなければ、京へ戻ってからの、信長からの特別待遇はあり得ない。表向きの「反信長」イメージは、反信長の拠点に滞在して情報を得やすかった。そして、それを、しっかりと信長に連絡していた。なんとなく、信長と反信長の二重スパイのようだが、近衛前久は「実力ある武家」と組むことが近衛家の生命線と心得ていたから、表面上はさておいて、しっかりした信長派なのである。だから、帰京後は、公家のなかでは、断トツの待遇であった。前述したことであるが、近衛前久は300余石の経済力であったが、信長から別途1500石を与えられた。


(6)信長の下で大活躍


 1575年京に戻ってから、1582年(天正10年)の本能寺の変までの期間、近衛前久は織田信長の命を受けて大活躍である。京に戻るやすぐさま、信長の命で、九州全体の和睦のため薩摩の島津家へ出向いた。


 1580年に大坂本願寺(石山本願寺)から蓮如が退去して、11年間も続いた石山戦争は終結した。その交渉過程でも近衛前久は何度も交渉に当たった。


 1580~1581年にかけて、南九州の島津家と北九州の大友家の和睦のため、幾度となく手紙を書いて使者に届けさせた。むろん、信長の意向である。


 1582年3月、武田攻めに従軍。他の公家も武田攻めに参加している。理由はわからないが、信長は公家すらも武田攻めに参加しているという格好を取りたかったのだろう。


 その他、天皇家と信長との関係は、近衛前久が仲介役となった。要するに、信長の手足となって大活躍していたのである。


 1582年は、信長の事実上の天下統一になる年であった。武田を滅ぼし、関東の西が勢力範囲となった。中国、四国の平定も確実である。九州は親信長になりそうだ。越後の上杉謙信はすでに病死して、弱体化している。関東の後北条が残っているが、ほぼ天下統一になるはずだった。ところが、1582年6月2日未明、本能寺の変で、織田信長の死となった。


(7)明智光秀・近衛前久の共謀説が流布


 なぜか、本能寺の変の直後から、明智光秀・近衛前久の共謀説が流布し、信用された。その最大理由は、二条御所に籠城している織田信忠(のぶただ、1557~1582)への光秀軍の攻撃であろう。織田信忠は信長の長男で、すでに後継者に決まっていた。光秀軍は本能寺から二条御所へ移動して信忠攻撃に転じた。そして、隣の二条近衛邸から弓・鉄砲を撃ち込んだのである。


 このとき、近衛前久は二条近衛邸にいたようです。明智軍が強引に近衛邸に入り込んだのか、近衛前久が積極的に明智軍を引き込んだのか、そこらは不明ですが、ともかく、近衛邸が明智軍に利用されたことは間違いない。二条御所の合戦は、6月21日、織田信忠の自害で終結した。


 この事件に加えて、公家を含む権力関係者の間では、昔の記憶が思い出された。近衛前久は、「反足利義昭・反織田信長」だったという記憶である。その後、信長に上手く取り入って親信長になったが、本音は「反信長」だったに違いない、そんな推測が持ち上がった。とりわけ、公家のなかには、少なからず、近衛前久を快く思っていない者がいて、「明智・近衛共謀説」が流されたようだ。公家のなかには、近衛前久が失脚すれば、所領関係で得する者がいて、意図的に「明智・近衛共謀説」を流した者もいたようだ。


 織田信長の3男・織田信孝(のぶたか、1558~1583)及び羽柴秀吉からも、近衛前久は疑われた。明智に味方したという噂話だけで、信孝に滅ぼされた武家もいたから、近衛前久の運命は、「もう、絶対的に窮地」である。それで、醍醐寺で出家し、嵯峨で蟄居したのであるが、そんなことで疑惑が晴れるわけでもない。


 近衛前久は「実力ある武家」と組むことが生きる道と心得ている。信長亡き後の「実力ある武家」は誰か。羽柴秀吉からは疑われている。誰だ、誰だ? 結局、11月、徳川家康を頼って遠江国浜松(静岡県)へ出向いた。


 実は、2人の関係は古く、1566年(永禄9年)に、家康が「松平」から「徳川」に改姓及び三河守従五位下の受任に際して、その斡旋・尽力をしたのが近衛前久である。なお、家系図の創作(改ざん)は公家・朝廷の商売で、当然、礼銭・礼物が支払われる。


 それはともかく、近衛前久と徳川家康の付き合いは、織田信長よりも古いのである。


 それにしても、近衛前久の情報収集能力は大したものだ。優秀な情報収集マンがいたに違いない。


 翌年の1583年6月に柴田勝家の敗死。そして、9月、徳川家康のとりなしで、完全ではないにしろ一応は疑いが晴れ、近衛前久は京へ帰ることができた。


(8)秀吉は関白になるため、近衛家の猶子となった


 ところが、1584年、秀吉と家康の小牧長久手の合戦である。近衛前久は悩んだであろうが、基本は「実力ある武家」に与することだから、秀吉の陣中に見舞いに出かけて、喜ばれた。しかし、秀吉にとって、近衛前久は極めて軽い存在であった。


 政治の最も奥深いテーマに「権力の正当性」がある。秀吉の頭のなかは、「武力」だけであった。逆らうものは、武力でねじ伏せる、それだけだった。しかし、小牧長久手の合戦では、家康を屈服させることができなかった。


 秀吉は、突如として、今まで無関心であった、朝廷の官位体系に目をつけた。誰の入れ知恵かわからないが、「関白」なる地位をトップに、家康も含めた諸大名に官職を与えて、「権力の正当性」を確保する決意をしたのである。


 それからはもう先例も慣行も滅茶苦茶で、秀吉の官位は超スピードで上昇した。


 1585年7月、秀吉は関白に就任した。このとき、関白は藤原氏の五摂家しか就任できないので、秀吉は近衛前久の猶子(ゆうし)となった。「養子」と「猶子」の相違は曖昧ですが、「猶子」は便宜的なケースが多く、大半は相続がからまない。


 関白秀吉は、諸大名を朝廷の上位官職に据えた。家康は内大臣となった。つまり、内大臣は関白の部下という感覚である。上級官職は数に限りがあるので、公家は下級官職・無役に追いやられた。しかし、絶対権力者・秀吉に、文句・不平など言えるわけがない。「武家関白制」といわれる秩序が形成され、秀吉政権の正当性が担保された。


 なお、「関白」を後継者に譲ると、「太閤」となる。


 秀吉は人心を理解できる人物なので、公家達にはしかるべき報酬を与えた。とりわけ、近衛前久に対しては、「猶子」となった関係で気を遣った。


 近衛前久の出る幕はなくなっていた。


 その後、時代は徳川家康になった。家康は「関白―太閤」ではなく、武家の「将軍」制度を打ち立て、朝廷・公家は隔離された。


 近衛前久は、やはり出番はなかった。のんびり、寺院や草津温泉に出かけていた。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。最新刊『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)が好評発売中。