太田記念美術館は原宿ラフォーレの真裏に位置していいて、一見住宅かと思うような地味な外観をしています。さまざまな浮世絵や版画を展示しているのですが、次回予告の画像を見たとき、あれ版画?誰なのかなと思ったのが、『ポール・ジャクレー フランス人が挑んだ新版画』(−7/26)でした。
これまで見たことのない明るく華やかな作品で、絶対観に行かなくてはと今やコロナ前と変わらぬ外国人観光客が大挙している原宿へ。美術館のあるエリアはほぼ人通りがないのですが、その路地に入るまでがちょっと大変です。
さて、浮世絵に影響を受けた外国人の版画作品といえば、アンリ・リヴィエールの『エッフェル塔三十六景』がまず浮かびます。この間観たバロットンも影響を受けたということでしたが彼らとはまったく違います。今回初めて知ったポール・ジャクレーは3歳で来日してから64歳でなくなるまで日本で暮らしたフランス人でした。日本人の画家たちのところで学んだわけです。
日本画を月岡芳年の孫弟子の池田夫妻に学び、30代に度々訪れたミクロネシアの島々で水彩画を描き、やがて新版画の制作に取り組んだそうです。
このフライヤーの『満洲宮廷の王女たち』が版画と思えなかったのは、ここ数年で覚えた川瀬巴水や吉田博の新版画とは全然違ったはっきりした色彩で、色数や細やかな描写のもさることながらやはり題材が変わっていたからです。
戦中は当然フランス人ということで政府の命令で軽井沢へ疎開していて、結局戦後も住み続けたそうです。和洋折衷な彼のエキゾチックな新版画は米軍人たちの間で大人気に。作品のほとんどは一般的に販売されるのではなく、私家版ということで数量限定の高級品だったこともあって、あまり知られなかったということかもしれません。
作品の摺りの数は吉田博も多かったと思いますが、『満洲宮廷の王女たち』はそれが223度とか。ポール・ジャクレーの作品は100度以上がざらだったようです。サイズは手頃で、白押しなども施されています。展示されているのはどれも保存状態が良く、とても美しい色を保っているのは個人が所有していたものだったからなのでしょう。
38歳の時の新版画第一作は彫師・山岸主計の協力で制作された『サイパンの娘とヒビカスの花』です。彼は自分の名前だけではなく、彫師と摺師も大切な共同製作者として作品に彼らの名前も入れていました。版画はプロ集団がいてこそ完成するものだというのを改めて思いました。
まだまだ知らない作品に巡り逢えたのがよかったですが、彼自身がどんな生涯を送ったのかも気になるところです。小説にでもなっていたらなと思いました。