『太陽の下で ―真実の北朝鮮―』(2017年公開/110分/チェコ・ロシア・ドイツ・ラトビア・北朝鮮合作)。監督:ビタリー・マンスキー



 近くて遠い国・北朝鮮。拉致事件が公式に明らかになるまでは、「朝鮮民主主義人民共和国」と両論併記していた。厳重な国家統制下にある国のリアルを描くには、当局の指示に従って撮影するか、隠し撮りを敢行するほかない。前者は「金日成のパレード(劇場版原題は「幸せの歌」)」(1989年公開)があり、後者には「北朝鮮・素顔の人々」(2014年公開)がある。


「パレード」は昔、東京・中野にあった映画館「武蔵野館」で見た。この国の売り物であるマス・ゲームと軍事パレードを中心に建国40周年記念式典を撮影したドキュメンタリー作品だ。北朝鮮が日本人拉致事件を公式に認めたのは2002年。1970年代後半から人攫いの活動は始まっていたが、この国に対する人々の関心は薄く、映画「パレード」も一部の人々の間で話題になる程度だった。


<音楽も動きも日本のラジオ体操そっくりの「律動体操」>


 もちろん「太陽の下で」も映画ファンの興味をことさら引くわけでなく、ロードショーにかかるような興行は望むべくもない。こうした作品はインターネット全盛の時代に動画配信されることで、昔に比べて鑑賞の機会をより多く得ることができる点で恵まれていると言える。


 映画は北朝鮮の「真実」を描きたいと考えたロシア人監督が、当局の検閲を受けながらも係官の目をかいくぐって現場でカメラを回した。本番とリハーサルを巧みに使い分けて真実と虚実を混合し、1本の作品を完成させたのだ。あらすじは、ごく単純。憧れの少年団に入団する小学生の女の子「ジンミ」の日常を通して理想的な家族を描き、「地上の楽園」を讃える、この国独特のプロパガンダである。監督は与えられたシナリオ通りにメガホンを取りながら、その陰でジンミの素顔をつかみ取ることに成功した。



 始まって間もなく授業風景が続く。女性教師は抗日戦争における「敬愛する金日成大元帥」の功績を延々と讃え、質疑応答形式で子どもたちに愛国心と敵愾心を刷り込ませようとする。主役のジンミはしおらしく聞いているが、退屈して鼻を触ったり、口を膨らませて不満げな級友を交互に映し出す。子どもは素直だ。建国の父がどんな人だったのか、興味が湧くはずがない。教師は手を変え品を変えて執拗に偶像崇拝を説くが、退屈に決まっているのだ。



 早朝、集団で職場に向かう市民の列。金日成・金正日親子が子どもたちと収まった巨大絵画の前で立ち止まり、一礼し終わって過ぎていく。少年団に入り、歴戦の軍人にスカーフをかけられ敬礼するジンミ。窓に手を当てて、青年団の踊りをぼんやりと見つめるジンミ。映画は幼いジンミの虚ろな表情を捉え、心の中に入り込もうとしていく。


 ラストの場面。スタッフの女性がジンミにこう語りかける。「少年団では何をするの?」。するとジンミは「少年団に入ったら組織生活をします」と答える。そして「組織生活をすると過ちに気付き、敬愛する(金正恩)大元帥様に対してどのようにしていけばいいかもわかるようになります」などと答えるうちに、頬から涙が伝わってきた。



 泣き出すジンミになおも「何か好きなことを考えて」と宥め、好きな詩とかどう?と水を向けると、「偉大な金日成大元帥様が設立され、偉大な金正日大元帥様が輝かせてくださり、敬愛する金正恩元帥様が率いてくださる……」という、少年団での「宣誓」をスラスラと喋りだしたのだった。


 独裁国家を維持する金王朝と腐すのは造作もない。集団睡眠にかかり、自由を奪われたと憐れむのも簡単である。徹底した思想統制で人々をコントロールすることの恐ろしさは、なにもこの国の専売特許ではなかろう。敬愛する大元帥への絶対愛や無条件の忠誠心と、緊急事態宣言を発令しておきながら愛犬をひざに抱いてくつろぐソーリを「気持ちはわかる」と得心することも、程度の差はあれ政治的な劣情の点で同義ではないか。


 北朝鮮に生きる市井の人々は、決して愚鈍でもなければ従順でもなかろう。ジンミをはじめとした子どもらは、みな愛らしく、無邪気な振る舞いやおどけた表情が印象的だ。彼女たちも大人になればさらに息苦しさを味わうだろうが、思想教育で人間が本来持っている本能や本質までは変えられない。そう思わせてくれるのがジンミの涙である。


 折も折、敬愛する大元帥様の重体説が飛び交っている。私たちが暮らしている日米同盟傘下の政治経済体制は、好むと好まざるに関わらず、この国に対して無関心でいることを許さない。(頓智頓才)